現象 ブルーノ・ グルーニング - ドキュメンタリー映画

1949年、ブルーノ・グルーニングの名前はメディアの見出しを占領しました。新聞は特別版を印刷し、ラジオとニュース映画が彼について報告します。彼に関する映画が製作されます。彼が現れる所どこにでも、人々が至る所から集まります。グルーニングは世界的なイベント(出来事)になります。

現象 ブルーノ・ グルーニングplay

現象治癒ードキュメンタリー映画

治癒は更に続きます。1950年代、ブルーノ・グルーニングは異例の治癒によって新聞に大きく書き立てられました。彼が1959年に亡くなった時、多くの人はこの現象が終わったと信じていました。ところが反対に、ブルーノ・グルーニングの教えのおかげですべての大陸の人々が救済と治癒を引き続き獲得しています。

  • 3部構成のドキュメンタリー映画
    (98分/92分/102分/合計292分)
  • 入場無料
    自由意志のご寄付に感謝します

現象治癒play

上映日程

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film2 icon = 現象治癒
film1&2 icon = 両方の映画

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ブルーノ・グルーニング交友会

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電話: +49 (0) 9453-998626
ファクス: +49 (0) 9453-996593
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自然による人生救済の会

公共の利益に役立つ慈善活動として認められています。

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登録番号: Siegburg VR 1843
理事: Dieter Häusler, Helga List

ブルーノ・グルーニングの生涯

1949年一夜のうちにブルーノ・グルーニングの名は突然脚光を浴びることとなりました。雑誌、新聞、ラジオ、テレビの週間報道番組にも報道されました。数ヶ月間、「奇跡のドクター」として彼が知られるようになるまでに関する出来事は、一般大衆を息をつかせませんでした。映画が製作され科学検証委員会が開かれました、そして上層部の権威者たちがその事例に対応しました。ノルト・ライン・ウェストファーレン州の社会大臣はブルーノ・グルーニングを民間医療師法の違反で起訴しました、しかし一方バイエルン州首相は法の条項のためにブルーノ・グルーニングのような稀有な現象をなくしてしまうわけにはいかないという意見を述べました。バイエルン内務大臣はグルーニングの活動を「愛の自由活動」と評しました。

激しい、異論の多い討論が社会のすべての階級において起こりました。興奮が高まりました。聖職者、医者、ジャーナリスト、弁護士、政治家そして心理学者。あらゆる人がブルーノ・グルーニングについて話しました。ある人たちにとっては、彼の奇跡の治癒は高位の力から来る神の愛の贈り物でしたが、ほかの人にとってはそれらはいかさまにすぎませんでした。しかし治癒の事実は医学的検証によって証明されました。
ブルーノ・グルーニングは一職人にすぎませんでした。彼は1906年グダニスクに生まれ、故郷を追われ、戦後西ドイツへ移住しました。あらゆる種類の仕事を経験しました。大工、工場や港の労働者、電報配達員や電気工として働きました。彼の奇跡の治癒の報道は世界中に広まりました。病気の人々があらゆる国からやってきました、懇願と願いの手紙と一緒に。何万人もの治癒を求める人たちが彼が活動をしている場へと巡礼の旅をしました。医学における革命が始まりました。
しかし反対勢力も現れました。影響力のある医者、教会幹部そしてこれら支援する人々はブルーノ・グルーニングの働きをひそかに妨害するためにできる限りの全てを行いました。治癒禁止令が彼を苦しめました。彼に対して訴訟が起こされました。秩序ある道に彼の働きを進めようとするあらゆる努力が脱線させられました、一方では影響力のある社会勢力の抵抗のために、もう一方では彼への支援の力不足あるいは利益に対する貪欲さのために。1959年1月、パリに於いてブルーノ・グルーニングが亡くなった時、彼に対するまさに最後の訴訟が全速力で進行していました。裁判は休止となり、最終表決には達しませんでした。しかし多くの質疑が未解決のままとなりました。

当時の治癒

1949年A.カウ( A. Kaul)博士はヘアフォルト(Herford)での出来事について小冊子に書きました。

ここにいくつか抜粋があります。
1949年6月17日から18日にかけての夜に、ヴィルヘルムスプラッツ(Wilhelmsplatz)7番の家で待つ治癒を求める人々の中にブルーノ・グルーニングの評判を聞きつけたイギリスからの男女も数人いました。ドイツ人医師が3人の患者と共にやって来ました。肺結核と骨結核があり左足が硬直している若い男性と、両足が麻痺した少年、そして慢性の神経質性頭痛の少女でした。
グルーニングは診断をしません。彼は左足の骨に特別注意を払うよう若い結核の男性に言っただけでした。「今どんな感じがしますか?」「温かい流れが体を突き抜けています」「それで今は?」「左足がピリピリしています」「私がするように左足を高く上げて!」グルーニングは自分のひざをお腹まで上げながら彼にどのようにするか見せます。若い男性は躊躇しています。「あなたも私と同じようにできます!」明らかに軽々と、患者は以前は硬直していた脚を要求された位置まで持ち上げます。半信半疑で彼は自分の脚と医師を見つめ続けます。「できた、脚を動かせる!」「あなたは健康を取り戻すでしょう、しかし時間がかかります。私に手紙を書いてください!」そして医師の方に振り向き、「私に経過を報告してください!」
両足が麻痺した少年は母親の隣に2本の松葉杖を持って座っている。「立ちなさい、私の息子よ!」母親は抗議します「この子は立つことができません。足が不自由なんです!」グルーニングは振り返ります。「そんなことを言うべきではありません!」彼は彼女に怒鳴り散らさんばかりです。「あなたが子供の病気を抱え込んでいるのです!私の息子よ!立ち上がりなさい!立ち上がれます!」赤い斑点が子供の細い顔にでて、彼の口は震え、彼の目から涙があふれる。深く感動して、部屋にいた人々は少年が肘掛椅子から立ち上がり、松葉杖なしで1人で立つのを見る。「では、私のところまでいらっしゃい!」彼はグルーニングへとふらつきながら近づく、グルーニングは彼を優しいまなざしで見つめ、彼に向かって手を差し出している。優しく子供の頭をなでて母親のところへ帰す、そして「ゆっくり更に練習しなさい、多くを要求しないで、脚はまだ弱いのだから!家に戻るまでは松葉杖を使いなさい、しかしその後は杖を捨てることができます!」子供の幸せそうな瞳と幸せそうな母親は感謝しました。
慢性の頭痛がある少女はグルーニングが彼女に話しかける前にすでに治癒されていました。彼女にはもはや全く痛みがありません。「もう一度痛くなりたいですか?」「いえいえ、とんでもない、いりません!」と言葉が飛び出します。
そして医師は?口もきけずに目の前で起きたことを見つめています。医師はグルーニングの手をとります。「グルーニングさん、あなたの言うとおりになんでもします。あなたを全面的に信頼します!」

1949年トランプラー( Trampler)博士はローゼンハイム(Rosenheim)のトラバーホフ(Traberhof)での出来事を記した。

ここにいくつか抜粋があります。
(9月5、6日)いずれかの夜に、ある医師が目の見えない男性がトラバーホフの前の庭で視力を取り戻したという刺激的な観察報告を持って家にカール・シュ(Karl Sch.)を連れてきた。シュ氏はミュンヘンにある大学の眼科診療所の1949年から述べている証明書を提示して見せた。患者カール・シュ氏は1914年8月24日生まれ、震えと角膜瘢痕を患い、右目は先天的白内障。視力1/20。彼の左目は失明している。患者はそれゆえ、事実上目が見えない。就業能力の低下は125%である。シュ氏は絶えず付き添いが必要である。医学博士E.ヴァルザー(E.Walser)主任医師 この目の見えない男性は、その頃ブレーメン(Bremen)地域からグルーニングが治癒の流れを送った場所で待っていた。彼はとても深く感動しており、自分の目に生じた変化をどのように突然に感じたか、そしてトラバーホフの屋根にあった馬の頭の形をしたネオンに気がついたことを話している。その後、周囲の全世界は暗闇から引き上げられ始めた、彼が全てを十分に見ることができるようになるまで。最初の医師による診断はゼッツィ(Zetti)医師によってなされ、この男性の報告書を確認した。翌日私はシュ氏とミュンヘンへ車で向かった。彼は高速道路で数百メートル先の車が見えると私に話した。高速道路の左右に何が見えるか話してくれた、すぐ近くの教会の尖塔から遠く離れた山々のことまで。(...)彼が治癒を受け取るために何をしたかという私の質問に答えて、彼は祈りそして待ったと答えた(...)
グルーニングが目の見えない人に視力を戻すことができるという驚くべきシーンがあります。少数例で、何の介入もなしで彼らの視力が再び完全に戻った時、幸運な人々は彼らの運命におけるほとんど信じられない変化にすっかり圧倒されました。グルーニングが私に説明するところでは、彼らの中には生まれつき目が見えなかった人がいたので、まず全ての見える世界について説明される必要がありました。

1950/1951年アニー・バロネス・フォン・エシェンバッハ(Anny, Baroness von Eschenbach)はグレーフェルフィング(Grafelfing)にあるヴァイカースハイムゲストハウスにおけるブルーノ・グルーニングの周りで起きた様々な出来事を書き留めていました。

ここにいくつか抜粋があります。
ある日、苦しんだ様子の若い女性と9歳くらいの女の子が2列目に座っていました。グルーニングが彼女に「それでは、お母さん、どんな感じがしますか?」と聞いたとき、彼女は「残念ですが何にも、グルーニングさん」と答えました。
「そうです、おかあさん、過去を振り返ってばかりいてはいけません!その全ての恐怖はまだあなたの内にあります。まずはそれを手放さなければなりません。爆弾攻撃の時のことです。あなたは東屋のようなところにいました。あなたは埋められ、当時妊娠8ヶ月でした。助けられた時、子供は目が見えない状態で生まれてきました。そうですね?
女性は驚き「そうです、その通りです!」と答えました。
それからブルーノ・グルーニングは彼女に言いました「それでは今から、これ以上あの悲惨な時のことを考えないでください。しかし固く神を信じて、神の助けをお願いしなさい!もう子供を一緒に連れてくる必要はないでしょう、あなたが、しっかり信じている限り」
8日後に女性がやってきました。悲嘆にくれた表情はなくなっていました。彼女は文字通り若返りました。グルーニングが今回彼女に尋ねた時、彼女は「ええ、今日は温かさが私の中を流れています、そして幸せで自由を感じます」と答えました。「さぁ勇気を持って!それを手放さないように。すぐに事は起こります」
1週間後に再び女性はやってきました、そして講演の最中、ブルーノ・グルーニングは彼女に歩み寄り、じっと立って言いました「お母さん、木曜日の午前5時20分に子供を暗い部屋へ連れて行きなさい。お子さんは見えるようになるでしょう、しかし、今まで色や形を見たことがないので、怖がることでしょう。その動揺が病を招くかもしれません。ゆっくりと周りのいろいろなことに慣れさせなさい。
このことは特別に私の興味を引きました、ブルーノ・グルーニングが言ったとおりのその時まで遡り、正確に全てが起こったことを私はその後に尋ね、明らかにしました。数年後、私はブルーノ・グルーニングにもう一度子供について聞いてみました、そして彼女はまるで生まれてからずっと目が見えていたかのように普通に見ることができていることを知りました。
ある時、まるで雪のように白い顔をした1人の若い女性が車椅子で連れてこられていました。公演の最中に彼女は意識を失い、まるで死んでいるかのようでした。ブルーノ・グルーニングは彼女をちらりと見て、彼女の周りにいた幾分心配になっている人々を安心させました、特に彼女の隣にいた男性を。およそ30分後、彼女は目覚め、伸びをして、頬を上気させ車椅子から降りました。そしてグルーニングのところまで歩いていきました、まだ少々不安定でしたが、彼女の瞳には晴れやかでびっくりした様子がありました。「すばらしい、奥さん、こうして自分の脚で再び立つことができると、人間の小さな心臓は再び正常に鼓動します。しかし急いで失った年月に追いつこうとしないように。あなたの体を仕事をするためにゆっくりと元に戻しなさい!」女性が彼にお礼を言おうとするとグルーニングは言いました
「神に感謝してください!私は神の小さな助っ人に過ぎません、あなたがすべきは、あなたが神の真の子であると証明することです!」
彼女を連れてきた男性は立ち上がり感激した声で言いました、「グルーニングさん、私はこの女性の夫であり自分は医者です、私にとって妻は手の施しようがありませんでしたが、あらゆることを試しました。しかし彼女は1つだけ望みました、あなたのところへ行くことでした。彼女はここに来る途中で死んでしまうと思い込んでいました、あらゆる運動が生命を危うくさせる深刻な心臓病にかかっていたからです。私はこの奇跡にとても動揺しています、とても信じられません!」
喜びの涙にくれながら彼は空になった車椅子を押して、妻の隣に座りました。そして2時間の講演に耳を傾けました。彼は時々物言いたげに隣から妻の方を見ました、まるで健康な妻の姿に慣れる必要があるかのように。
耳が聞こえない人々は往々にして後方に座っていました、グルーニングは小さな声で彼らに質問しました、「私がこうして大きな声で話せば良く聞こえますか?」答えは、「はい、どの単語もよくわかります、大きな声で話して下さるので、そしてぶんぶんいう音が頭の中で鳴り始めました」みんなが笑ったものでした、なぜなら彼らはグルーニングが質問をとても小さな声でしていたのを知っていたからです。

最初のアイディアから映画の完成まで

映画「奇跡の使徒」は1993年に完成した後、映画館で上映されていました。新しいさらなる挑戦的計画の準備がすぐに始まりました。 ブルーノ・グルーニングの生涯の映画
1994年全体は準備と調査にあてられました。保管庫の資料が見直され、同時代の目撃者レポートが研究され、ますます多くの資料と事実が集まりました。
1995年2月最初の障害がありました。 数年かかかって現象の軌跡をたどり始めました。80を超える目撃者がインタビューされました。グダニスク(Gdansk)からパリ(Paris)まで訪れました。ドラマティックな再演が映画に収められ、映画ファイル保管庫からオリジナルの写真が順に並べられました。数百の写真、スライド、文書が写し取られました。最後のインタビューが2000年の初めに行われ、最後の文書が2002年に撮影されました。
傑出したイベントは1997年5月に2000人を超えるエキストラと共に行われたトラバーホーフ(Traberhof)の場面でした。何週間もの準備が必要でした。何百という衣装、技術装置、映画チーム、許可証に加えてエキストラを見つける必要がありました。
1番めのエキストラがすでに朝到着していました。撮影は暗くなってから始めるだけでしたが、何百もの車、数十のバスがまもなく現れました。農家の前は徐々に埋まって行きました。農家は小道具類や借りた道具で改造され、ローゼンハイム(Rosenheim)近隣の1949年のトラバーホーフのように再現されていました。
映画チームは髪とメイク担当、衣装担当、小道具担当、照明担当など70を超える人々で構成されていました。暗くなるや否や事が進められました。夜明けまでに全てが終えられなければなりませんでした。突然いくつかの装置が役に立たなくなりました。カメラに問題が生じました。ミュンヘン(Munich)から予備部品を取ってこなければなりませんでした。
あらゆる困難にもかかわらず、日の出のちょっと前に全てが箱の中に納まりました。午前6時までに2000人以上の人々がまさに陣取っていた場所がきれいに掃除されました。夜に行われたイベントの痕跡は跡形もありませんでした。
全体で70時間分以上の映画が撮影されました。この膨大な資料は検証、編集されきる必要がありました。ある一日の夜の出来事だけに関する映画を作るという当初の考えに固執することはできないことは、すぐに明白となりました。この題材をたった2時間で扱うことはできませんでした。ブルーノ・グルーニングの生涯を従来の型に無理に押し込むことは不可能でした。約5時間の上映時間となりました。

独自の題材、独自の映画、独自の型。

現象 ブルーノ・ グルーニング

映画の内容

ブルーノ・グルーニング(1906-1059)は精神の道における多くの治癒を通して1949年、世界的に知られるようになりました。これは彼の作用による成功が公表されたことにより起こり、更に多くの人々が助けを求めて彼の所へと集まりました。

医療行政の主導的立場にある数名の医者がこれを受け入れることをせず、地方当局に働きかけて治療禁止令が出されました。彼らはグルーニングが民間医療師法に違反したとして非難しました。しかしながら彼は一切の医学的治療をしておらず、この禁止令は無効でした。にもかかわらずこの申し立てにより、彼は生涯にわたり、公に法廷において追求されることとなりました。

深い思いやりと他の人に対する無私の愛で、彼は亡くなるまで使命を果たしました。映画では50名以上の人が彼との体験について報告しています。

映画鑑賞者のコメント

ヤナ P.  バート・ベヴェンセン

10月5日に私は映画を観ました。数日後、まだ私の心にブルーノ・グルーニングの物語が焼きついていて感動していました。映画は倫理的に高い水準を伝えていました。富める者も貧しい者も同じであるということを。強調されていたのは人間のままの人間、正直さ・・・私はグルーニングさん、彼が助けた全ての人々、彼に賛同する全ての人々に魅了されました。客観的な報告は大変価値があると思います、そして彼の遺志がこの先も守られることを望みます。

ティナ S.  ポツダム

この映画は私にとってブルーノ・グルーニングを人間として、とても身近なものにしてくれました。特に全ての生き物に対する彼の完全な愛がわかりました。この男性が利己主義から、いかにかけ離れているかと言うことにも特に重ねて気がつきました。私はしばしば体に強くピリピリとした感覚を覚え、後でしばらく自分の気持ちを整理する必要がありました。映画は私に強力なエネルギーを発しました。加えて、映画製作者に最高の敬意を表します。

ヴァルター K. ウィーン

人の気持ちがわかり、愛情深いブルーノ・グルーニングが示されたことが特に素晴らしい。結局のところ、治癒なさるのは神の愛です。私は愛の治癒の流れをはっきりと感じることができました。

マリオン N.  ミュンヘン

最も感動的な映画、神と私達とのつながりが私達人間にとって多くの治癒をもたらすことがいかにしてできるかを表現しています。神は命であり、神は愛です。神は自己認識です。ブルーノ・グルーニングに対する争いはとんでもないことです、彼はただ良いことを望んだだけなのに。

レジーナG.  ヴォルバッハ

私達は映画を気に入りました、とても感動させられました。目撃証人達の映像や言葉はたいへん有益な情報を与えてくれるものでした。映画はあっという間に終わり、全く退屈しませんでした。ブルーノ・グルーニングを傷つけるためにメディアが彼らの力を乱用したやり方にショックを受けました。

カロラ K. ベルリン

反物質主義のお手本として、このブルーノ・グルーニングの映画に深く感動しました。異なる方法での公平なやり取り。私の患者に大きな助けとなりました。

フェルディナンド T.  ミュンヘン

上映会の時間の長さにもかかわらず、ミュンヘンのマキシム映画館中は興奮にあふれていました。私にとって、私は52歳ですが、少し前の歴史として大変興味深いものでした、というのも当時のことは殆ど覚えていませんから。加えて、映画のメッセージと声明は重要で注目に値するものであると理解しています。私を魅了し続けるでしょう。ブルーノ・グルーニングの生活環境についてさらに詳細を見てみたかったです。証拠書類、再現そして目撃者による説得力のある声明のミックスが私に語りかけ、映画を生き生きとして楽しめるものにしていました。

ドロシア N. ジーゲン

最高に感動的な映画。ブルーノ・グルーニングについての私の意見を訂正することができました。(私は92歳です)映画を観る価値は間違いなくあります。

ルーカス W. ウィーン

映画とブルーノ・グルーニングの運命にこの上なく深く感動しました。映画の品質は素晴らしく事実がそのまま語られています。

ロスヴィータ S.  ウィーン

映画が3部構成であると知っていたら私はこのように長い上映会には参加しなかったでしょう。私は長々と座っているのに我慢できません。しかし非常に驚いたことに、少しも背中が痛くなることはなく疲れませんでした。何かより良いものの意識によって強められた感じがしました。

ルイーゼ R.  ミュンヘン

大変印象深いシーン、大変繊細に愛情をこめて制作され、見事な構成。映画はブルーノ・グルーニングを1人の人間として身近にしました。彼は偉大なヒーラーであると私は確信を強めています。

ミリアム V.  ウィーン

そうするようアドバイスを受けたので、私は上映中、体をオープンな状態にするようにしました、すると本当にいつも手に何かチクチクする感覚があります、その後全身にその感覚があります。体に痛みのある場所に何か引っ張られる感覚があり、まるで何かが私の体の中でバランスを保っているかのように感じました。両側脊柱側わん症に苦しんでいました、それで腰椎部分に痛みがありました。しかしもう痛みありません。私はこの映画に最高に感銘を受けました。この治癒エネルギーが私の中を流れるままにし続けています。とにかく私はこの映画を他の人に勧めます。

現象治癒

映画の内容

ブルーノ・グルーニングとの最初の出会いでグレーテ・ホイスラー(1922-2007)は3つの不治の病の自然治癒を体験しました。彼女の感謝と隣人愛は非常に大きく、1979年にブルーノ・グルーニング交友会を設立しました。彼女は亡くなるまでブルーノ・グルーニングの教えを世界中の人々が体験し、そして神のハイルシュトロームを体験するために戦いました。多くの興味を持った人々、人からの紹介やインフォメーション講演会を通じて、また神への祈りを通じて交友会を見つけています。

「現象治癒」この映画は如何に世界中の人々が今も素晴らしい治癒を得ているかを実証しています。医療科学専門グループの医師たちは治癒についてコメントし、彼ら自身の体験について語ります。交友会の他の注目すべき活動も紹介されています。

このすべては13000人のボランティア活動での協力者の努力と友たちの自由意志の寄付金によって遂行されました。誰ひとりとして金銭を得ていません。